人生リセット

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まず、僕が小学生だった頃の出来事を話そうと思う。特に取り柄は無く、目立たない性格の子供だった。ある夕刻の下校途中のことだった。濡れた金木犀の絨毯が、雨上がりの歩道を覆っていた。僕は滑らないように気を付けて歩いていた。注意深く一歩一歩歩いていたにもかかわらず、見事に転んでアスファルトに後頭部を激打してしまった。母親から聞いた話によると、僕は2時間程気を失っていたらしい。目を腫らせた母親に、病院のベッドの上でそう聞かされた。頭に痛みが残っていた。後頭部を右手でさすっていると、その間にみた夢を思い出した。


こんな夢だった。僕はどこか知らない夜のベランダにいた。吐く息が白かった。両手を口の前にして、はぁっと暖めた。掌が少し湿った。空は星をたくさんたくさん輝かせていて、流れ星が流れてもおかしくないなと突然思った。そこに神様が現れた。『お前の人生をリセットしてあげよう。戻りたい時を強く思い、そして強く舌を噛みなさい。』特に不満があるわけでもない、少し不運で少し不安なだけだった。神様は人間の形をしていた。ただのお爺さんのように見えた。その神様は続けた。『今すぐにとは言わない。そうしたくなったら、そうしなさい。心も記憶も経験も思い出もそのままに、人生をリセットしてあげるからね。』なぜ、僕にそんなことを教えてくれるんですか?……言葉を声にしようとした時、病院のベッドで目が覚めた。そして心配したわよと涙目で怒られた。


それから、頭の片隅に【人生リセット方法】を置いたまま、毎日を過ごした。高校生の時、実行しようかなと思う夜があった。コンプレックス、人間関係、孤独、受験、束縛しか方法を知らない恋愛…。人生の難関という難関がハードル走のように立ち並ぶ時期だった。あのお爺さん(神様)の言葉を思い出した。【心モ記憶モ経験モ思イ出モソノママニ、人生ヲリセットシテアゲルカラネ】でも、よくよく考えてみると、今の記憶や経験やらを抱えたまま人生をやり直したって、また今のこの時期になったら同じ悩みを持つのだろう。もしかしたら、この悩みのことが不安で、それまでの人生も不安に生きないといけないかもしれない。もしかしたら、これから先にもっともっと不運で不安で不満なことが待っているかもしれない。それなら、もっともっともっと先まで行って、いろいろ記憶して経験して思い思われて、……それからやり直すのも遅くない。


社会人になった僕は、こんなふうにも思えるようになっていた。今までの乗り越えた困難、大小合わせると数え切れない。自分を自分で褒めてあげられること、それと同数程の後悔。愛した人愛せなかった人愛してくれた人愛してくれなかった人。それらをもしやり直すことができたとしても……、想像したら少し減なりした。少しくらいは自分に自負があったのだろう。そもそも舌を噛んだって死んでしまうだけだろうし、心も記憶も経験も思い出も一緒くたに無くなってしまうはずだ。本当にゼロからやり直すには、この世は少し面白みに欠ける。もっといろんなこと経験して、現実と自分をより良い方向へ運べたらどんなに素晴らしいだろうか。


はっきりと思う。思い悩むより、今を良くする方がたやすい。思い悩んで息を止めても、時間は止まらず朝が来て明日が来るからだ。やり直すより、今を良くする方がたやすい。やり直したとしても、「今」は必ず来るからだ。


今日で定年退職した。


子供は二人で、家を離れてから十年近くになる。家族を維持することは本当に忍耐がいる。でも、それに変えられない珠玉の時間を数多く手にした。人生の困難の後には、充実とか、かけがえのないものが必ずあった。今、人生をやり直さなくて本当に良かったなと思う。もしやり直していたら、一つ目の困難を避けて、今ここにいないと思う。


人生のお疲れ様まで、5分の4程度のところだ。今日から最愛パートナーと人生の次章をスタートさせようと思う。