与えて、求めず

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小さい頃、僕の家には、いろいろなものがありました。コースを走るレーシングカーや、戦隊ロボットや、図鑑、軟球、革のグローブ、サッカーボールに、BB弾のガス銃。残念ながら、その男の子らしいであろう物たちには一切の興味を持てず、ブロックや人形を求めた僕にお父さんのあなたは、少し残念さを覚えたことでしょう。今、そんなことをふと思い出しました。同じようなことを僕もするんでしょう。与えて、求めず。やっと答えがでました。たいていの人にとっての、この難しいこと、何とかできそうな気もします。何故なら、幼いときからの体感として、かすかに残っているような気がするからです。夏の日には、おたまじゃくしや、バッタを捕りにいきます。目の前に川は無いので、フナは釣れませんが、目の前の草原が駐車場になってしまうまでは、毎年行こうと思います。



ある日のことです。大きな地震が起きました。そして、姉のように人生がかかった受験生でもなく、たいした状況でもなかった僕は、お父さんであるあなたに、酷いことを口にしてしまったことを覚えています。怒った顔をひとつしただけで、ぐっと堪えていたのでしょう。今まで一度もそれについて言われたことはありませんが、腱鞘炎の腕に包帯を巻いている姿が、今も目に焼きついています。その頃は、腱鞘炎という言葉も知りませんでした。弱音も愚痴も聞いたことがありません。不自由をしたこともありません。本当に辛いのは自分なのに何故分からないんだとかも、聞いたことがありません。おもてに出すことをせず、夫婦で消化し合っていたのでしょう。なるべき姿はこれだ!と思います。


ある日の夕方ことです。大学生になったばかりで、自分の周りがグルグルと大きく変わっていくことに気付かない振りをして、ただ時間につかまっていた僕が、振り落とされて家に帰ってきます。食卓を挟んで、僕はお母さんと向かい合って座ります。僕はただ「別れたよ」というような言葉を口にしたと思います。あなたは、僕よりも先に涙を流してくれました。「辛いのはこっちの方や」と泣きながら言いましたが、内心この人は、いつまでも味方でいてくれるんだなと、悟ったのでありました。


小話をもう一つしましょう。彼女ができたころからは、家に連れてきては、夕食をもう一人分作ってもらっていました。もう少し、大きくなってからは、夜は帰るか帰らないかも連絡しない日が殆どでした。どこにいくのか、聞かれたことはありません。「無関心」と「全てを受け入れる」の決定的な違いが、そこにはありました。遅く2時とか3時に帰っても、必ず寝床から出て来てくれたのを覚えています。食卓には茶碗がありました。子供のときには、それがどういうことかは、気付きません、気付けません。強要していたら、少し違っていたかも知れませんが、それは皆無でした。


情報処理の国家資格のスクールのお話です。個人情報が、じゃじゃ漏れだった時代(1997年)、突然かかってきた勧誘の電話に、まんまと引っ掛かり、そのスクールに通いたいと言ったとき、「取り敢えずやってみろ」的な返しをしてくれました。騙されてるんじゃないか等、マイナスの意見は言われた記憶はありません。ただ一つ約束した「授業料の分割払いは自分で責任を持つ」も、結局最後まで守れず、残金を一括振込みしてくれましたね。その時、何とか取れた第二種情報処理のおかげで、自分はその道に向いているんだと思い込み、今の会社に入れた次第です。社会人一年目、二年目に、向いてないことに気付き(空き巣にも入られ)、病んだりもしていましたが、七年目の今、向き不向きではなく、継続することが力になるんだなと気付いています。あの頃、いろんなことに騙されつつ、良い方向に思い込めたのは、あなた達の支えあっての事です。ちなみに、そのスクールですが、英語会話の授業もあり、まだまだ受けれる授業の残数があったにも関わらずに、就職活動中に、契約期間満了したことは、今でも内緒です。


まだまだあります。これは大学時代のことです。大学一回生、真面目に授業を受けていました。大学二回生、バイトに明け暮れて、全く大学に行ってません。バイトして、夜中ごそごそと活動し、昼間まで寝てる…の繰り返しです。その頃も、お母さんのあなたは、仕事の昼休み、家に帰ってくると、真っ先に僕の部屋を覗きに来てくれました。「あらま、ねてたの」という具合にです。授業料払っているんやから、大学行け!!さもなければ辞めろ。等も言われたこともありません。理由も根拠もなく、ただ信じてくれてたのでしょう。当然の酬いとして、「相対性理論」と「量子力学」という科目を落とします。物理学科の醍醐味であるその必須2科目を不勉強のためだけに落とします。大学を辞めようかなとかも正直思いました。そして、ふら〜っと、一年休学を決行します。休学を宣言したとき、母:「あらま」、父:「【何もしないこと】を一生懸命するのも大事やで。」と言われました。神ですか!!仏ですか!!あなた達は!!!!その言葉を真に受けて、バイトに明け暮れました。でも、その一年で得た、バイトの包丁技術や、パソコンの操作感覚や、自分とは何ぞやの自己分析が、人生の糧になっていることに気が付くのは、もう少しあとの事です。


就職活動のときのことです。新しいパソコンは、お父さんが殆どのお金を出してくれました。ただ、「がんばれよ」という一言を付けてです。ああしろ、こうしろも、なしです。スーツとコートも、かなり高かったですが、お母さんが買ってくれました。「夕飯を買うお金が無くなった」というジョーク付きでした。おねいさんの導きも大きかったです。あの頃は、午前は説明会、午後は面接…の日々が続きました。昼食は時間が無く、混んでいるマクドナルドで立ったまま食べたり、反対に時間が有り余って喫茶店で3時間潰したり、いつ終わるねん…と、かなり辛かったです。お腹を空かせて家に帰ると、御飯があり、話しを「すごいねすごいね」と聞いてくれる母親がいました。口からその日の出来事がとめどなく零れます。話し終え満足した僕は、よく眠れて次の日も元気良く玄関を出ていくことができました。入社前に株価が暴落した時は、お父さん、心配してくれましまたね。今や、業界全体が不景気で超ヤバいです。


性教育とは何たるかと言う話。それの一切合切は、独学と実践からなるものですが、捻くれも、偏見も無く、励むことができたのは、環境によるところが大変大きいでしょう。スクープ的かつ激写的な時も(同じですが)、ジョークな小笑いで流してくれました。見て見ぬ振りでも、過剰な諭しでもなく、その絶妙な匙加減で、こちらと致しましても、徐々にオープンになることができました。そして、K&Yがうまれました、めでたしめでたしです。


神の極みですといいますと、南の別館を抜きにしては語れません。ある日、庭に別館が建ちました。しかしながら、子供達はというと、海の外やら東京やらに出て行きました。これについても、とやかく言われたことはありません。関西で就職しろとも、誰のためやと思っとるねんとも、です。旧友が来た時は招き入れ、一人で帰省した時も招き入れ、家族で帰省した時も招き入れ、嫁さんの母親をも招き入れてくれました。自分達がやらねばならない、究極の任務をも受け入れてしまう(安易な言葉ですが)懐の広さには、本当に感謝してもしきれず、ただ申し訳ないと思うばかりです。


上京する時、結婚する時、家を買う時、買った後、どっさどさと、支援してもらって、「返さんでええから、子供にしてやれ」と言葉を貰った時は、自分も同じことをできるようにならねば、と思いました。


文章にしていると、ぼんやりしていたことが、クリアになってきます。そして、向かうべき方向が見えてきます。分かってるつもりでしたが、全然できていませんでした。何となく生きていると、あっという間に過ぎていき、「何故、頑張っているのに誰も気付かないんだ」と求め続け、嘆き続けていたでしょう。そして、刺されたり刺したりがあったかも知れません。子供ができ、何となく気付き、30歳になり、言葉に変えることができました。まだ、気が付いてないことが多いでしょう。次の世代に続けていかなければなりません。


あと、ひとつ。自分が好きという話。何よりも「自分が好き」ということが大事だと思います。AB型ということも、いろいろと助けになっています。仕事に、プライベートに、悩んだり病んだりしてます。時には、強がってみたり、開き直ってみたり、周りのせいにしてみたり、反省してみたりしています。でもでも、自分自身を嫌いになったり、責めたりすることは、殆ど皆無です。要するに、自分教の信者なのです。(人前で大声では言えんけどね)自己肯定感があると、この世は何でも乗り越えることができる。有り難いね、この感覚。一心に注いでくれた愛情で「自分は肯定するんに足るものなんだ」と染み付きました。ほんま、有り難い。この自己肯定感覚を、家族みんなで持てるように、僕は「与える」番にならないと、と思います。でも、僕の中の【与えて君】が顔を出そうとする時があるでしょう。その時は、「与えて求めず」と煎じて飲み込みます。


なんか、自分の宣言文のようになってしまいましたが、本来の目的をここで達成しましょう。これまで、御礼を口にしてはきませんでしたが、本当に感謝感激で一杯であります。


これまで、ありがとう。そして、これからも、宜しくです。バトンは確かに受け取りました。(バトンゾーン長くてゴメンm(__)m)


2008/12/03
30歳を迎えるにあたり